2011年4月8日金曜日

再び石巻へ(7日目)

夜中11時30分頃、いままででの最大余震が東北地方を襲った。石巻の私のいるところも震度6弱だったらしい。

私は前日の夜に熱を出して、一晩で熱は引いたが一日不調、その晩は早々に寝ていた。
そんなときに猛烈な地震に起された。
地鳴りと、建物が揺れる音が、まざって、何とも言えない騒音の中、すでに停電して周りは真っ暗、猛烈な縦揺れが体をバウンドさせている。
あわてて枕元においてあるはずの眼鏡を探そうと手探りで探そうとするが、探す手も地震の揺れでとび跳ねて、眼鏡を触ることができない。

誰かの「外に出ましょう!」の声にみんな外に出ていくが、超ど近眼の私は、眼鏡がなければ一歩も外を歩けない。揺れはまだまだ続いている。一瞬死の恐怖に駆られる。これ以上揺れが強くなれば、建物が崩れる。這い出しても眼鏡なしでこれ以上避難できる自信はない。
それでも眼鏡は諦めて、手探りで外に這い出ようと思ったときに運よく眼鏡が手に触れる。
眼鏡をかけて外へ避難。
しばらくしてようやく揺れがおさまった。

消防車がサイレンを鳴らして通って行く。
時折「ゴ~」と言う地鳴りが聞こえ、そのあとを追って揺れが来る。
防災スピーカーは、「火をつけるなラジオをつけろ」と言っている。
私は既に外の薪ストーブに火を入れてしまっていた。
まだまだ夜は寒い。駐車場の真ん中だからいいだろうと判断して、暖を取りながらラジオの情報に耳を傾ける。
避難所に行っている仲間は、自分たちの行っている避難所が心配と、支援物資の中から懐中電灯、ろうそくを探し出して車に乗って飛び出して行った。

その後津波の心配はないとラジオは伝えた。
避難所の様子を見に行った仲間達も大丈夫と言って戻ってきた。

余震の余震は、まだ地鳴りとともに来ていたが、寝れる人は寝ることにした。
余震には慣れているつもりだったが、怖かった。

その晩は昔の友人と山の中にテントを張って避難している夢を見た。

 翌朝、停電は回復せず、天候も崩れてきていたため、しももとさんと相談して、今回の作業を一旦延期することにした。しももとさんは盛岡の知人を訪ねて、さらに北上し、私は松本に帰ることにした。
私は余震の恐怖にすっかり萎えてしまっていたが、意外にも、来たばかりのボランティア達は誰一人帰る人はいなかったと後から事務局の人から聞いた。

 テント泊をしていた、安曇野しんさん達も平気なようだった。停電したことも気が付かなかったと言っていた。テントはもともと電気はないし、テントなら建物が崩れる心配もないし、そういうことなのだろうか?
帰りの道中しばらくは、信号機の停電が続いていた。
幹線道路を走っている間は、ノンストップでスムーズに流れる。
昼には、かなりの停電が解消したらしいが、停電した地区のコンビニの惣菜、パン、おにぎりは軒並み売り切れになっていた。
道中の買い食いは、たのしみの一つだったが、新潟に出るまで叶わなかった。
トイレは道の駅でも停電で使えないとあり(きっと合併浄化槽なのだろう)、次の道の駅まで我慢をした。

2011年4月7日木曜日

再び石巻へ(6日目)

松本から、小屋キットを載せて、大工のしももとさんが来てくれた。こんなに載せたことはないと。大工道具1式、小屋キット、骨組み、壁板1式、屋根ふきトタン1式。マフラーを路面に摺りながらも、絶妙のドライビングテクニックでかわして来たとあっさり言う。

さっそく組み立て。
この小屋キットは、しももとさん設計。組み立て分解ができるので、回収が前提の今回の「仮設の仮設のお風呂」には最適とおもう。材料は朝日村産の間伐材使用。

1間×2間の大きさ。
固定に金属のボルト、かすがい、は一切使わず、木の栓のみ。
日本伝統の貫構造。やわらかく地震の揺れを吸収してくれるはず。
お昼過ぎから半日で、屋根かけまで完成。とても順調。
明日は、二人で壁を張り、中の間仕切りを造り、洗い場の床を張り、ある程度造作作業を終わらせる予定だったのだが‥。

夜中にいままでで最大の余震が東北地方を襲った。

2011年4月6日水曜日

再び石巻へ(5日目)

今回は、お風呂作りに専念することにして、避難所には行かずに、仮設お風呂の設置場所の整備をした。テントを立てたり、裏山の枯れ木を除去したり。

以前行っていた避難所には新たなボランティアメンバーが入って、充実した炊き出しをしていた。茶碗蒸し、ミネストローネ、炊き込みごはん。
ガスも水道も使えるようになり、私のいたころのあの苦労は何だったのだろうかと思うほど。日に日に状況は変わっていく。スタッフの活動もそれに合わせて変えていく。

夕方、安曇野から仲間しんさん、きむらさん、やまもとさん、かなちゃんが支援物資を満載にして、私のいるボランティア事務所に寄ってくれた。
大切な支援物資を全部提供してくれる。ありがとう!

見慣れた仲間と、彼の地で会う。
ちょっと前までは想像できなかったけど、何か今では、当たり前のような、普通の光景のような気がしてくる。
彼らは当然のように支援物資を置き、泥出し用のスコップ、一輪車、土嚢袋を積み直し、暗くなりかけた道を女川に向けて走り去って行った。

2011年4月5日火曜日

再び石巻へ(4日目)

みんなで薪作り。
仮設の仮設のお風呂、完成予想図。

一緒に来たあみちゃんは、予定の日程をこなし、高速バスで帰っていった。

2011年4月4日月曜日

再び石巻へ(3日目)

今日は以前ボランティア事務所として使わせていただいていた福祉施設で炊き出しをした。
定番のカレー。ゆもとさんが助っ人に駆けつけてくれた。
ちょっとした手違いでボランティアスタッフは2人だけ。多くを施設のスタッフに協力してもらってしまう。施設スタッフに楽をしてもらおうと思ったのに、かえって手をかけさせてしまった。
炊き出しはチームで動いた方がいいと反省。
しかし施設スタッフこだわりのカレーに仕上がり、おいしいと満足してもらえて良かった。

片付けもままならなぬうちに、すぐに車で10分ほどの避難所に移動、足湯場を作り、避難されている方に足湯をしてもらった。
持ってきた運動会テントを張って、風が強かったので、ブルーシートで囲い、中で味噌炊き釜でお湯を沸かし、ひしゃくでお湯を水槽に移した。
さっきの福祉施設のスタッフはこの避難所でも働いていて、後から「足湯」看板をもって来てくれた。以前施設で作ったものだが、足湯をやると聞いて持ってきてくれたのだった。ほんのちょっとした心使いが本当にうれしい。
自分の家も流されたが、ここの職場に来ていて助かった、親たちは大変だったと言っていた。
彼女たち地元スタッフが避難所の方々に声をかけてくれて、希望者が外の足湯場に来てくれた。体が温まって気持ちいいと好評。よかった~。
 

2011年4月3日日曜日

再び石巻へ(2日目)

今日は明日の炊き出し、足湯のために、薪材を調達し、薪作りをした。
近所の製材所から端材を頂いて来て、チェーンソーで短く切り、針金でまとめた。
製材所の方が端材をわざわざ、トラックに積んで持ってきてくれた。まだ必要なら声をかけてくれといってくれた。
 後は、事務所の外回りの環境整備をかってでる。地域の方の好意で貸してもらっている公民館。きれいに使って、きれいにお返ししたい。
 ゴミ置き場がないのでごみステーションを、ラティスを使って簡単につくる。

昼間は閑散としていた事務所も夕方になると各避難所にいっていたグループが帰ってきてにぎやかになる。

夜、事務局の責任者からこの公民館に仮設風呂を作ってくれないか?と依頼を受ける。
ここを隣の小学校に避難している方の休憩所にしたいと。洗濯機を置いて洗濯をしてもらったり、お風呂に入って、畳の部屋でくつろいだり。
もう1か月になろうとしているのに、未だに体育館の床の上の生活ではかわいそう、行政にも早い対応を訴えていきたいのだという。

快適なお風呂ならユニットバスが一番。
でも、おそらく今は、ものが調達できないと思う。
仮設のユニットバスが出来るまでの間のつなぎとして「仮設の仮設のお風呂」を作ることを提案した。
お風呂の建物は、長野の自宅に組み立て前の小屋キットがあるのでそれを使って、給湯設備は持って行った味噌炊き釜で沸かしたお湯をポンプを使って湯舟に引き入れる。冬は寒いので、夏だけの「仮設の仮設」

オッケーが出たので、小屋キットを作った大工のしももとさんに連絡をする。
組み立て、建前はコツがあるので、そのときは連絡するように言われていた。
事情を説明すると、なんと、ここまでキットを運んで組み立ててくれることになる。もう明日には出発できると。
ありがたくお願いする。日ごろお付き合いしている方達が予想もつかない状況でも助け合って協力し合って、なんとかしてくれる。ここ1カ月そんな感じでどれだけ助けられてきたことだろう。